〜後編〜

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 江戸時代中期以降、都市化が進み、江戸、大坂といった大都市が出現します。それに伴なって商品経済、貨幣経済が発展します。この大都市での貨幣経済の発展は、武士階級を疲弊させるとともに、文化をも大きく変容させます。すなわち、江戸や大坂における町人文化の開花です。茶道も当然のことながらその影響を受けざるを得ませんでした。茶道も町人層へと裾野を大きく広げることになるのです。
 将軍家では、四代将軍家綱の茶道師範であった片桐石州以降茶道師範は出ていません。江戸幕府では、儒教が重要視され、朱子学的な道徳観が強調されました。茶道は、政治的な意味合いが弱まり、武士の嗜みのひとつへと変わっていったように思われます。

大名物 唐物肩衝茶入 銘 日野肩衝 唐物四方盆

 このような時代背景の中で登場するのが、千家中興の祖といわれる如心斎、又玄斎、不白でした。茶道人口の広がりは、新しい茶の湯の教授法を求めていました。如心斎らは、これに応えようと懸命に知恵を絞りました。そして、大変な苦労の末に制定されたのが、「千家七事式」でした。この千家七事式は、点前と作法を一度に伝授でき、また町人の茶の湯愛好家にも親しみやすい遊興性を備えたものでした。七事式の制定は、千家茶道のお稽古人口を大きく増やしました。伝統文化といえども時代の要請に応えることがいかに重要であるかを私達に教えてくれています。この時から茶道には、大衆化の道も開けてくるのです。

曙棗 玄々斉
 川上不白は、この七事式を武器に町人文化が大きく花開いた大江戸で約半世紀にわたって千家茶道を広めます。不白は、貴賎貧富の区別無く茶の湯を習いたいと志す者があれば誰にでも教えたといわれ、七事式を活用して多くの人々を教えるようになっていきました。
 不白の茶の湯についての次の言葉は、茶道史を考える上で極めて重要な意味を持っているように思われます。
 「茶の湯の点前は、師匠に似ないのをよしとする」
如心斎らは、千家の茶の湯に個性を持ちこみ、独創性を強調したのです。宗旦以来の利休茶道の継承という千家の茶道観を変更したのです。これは、大変な心の葛藤を伴なう心労の多い作業であった思われます。そのためか、如心斎は、四十六歳の若さで没しています。後年不白は、如心斎の心労をのちの人はよくよく思うべきであると、述べています。
 このように大衆化した茶道に警鐘を鳴らしたのが、松平不昧でした。二十歳の時に書いた『贅言』の中で、不昧は、今の茶の湯は唯の慰みになっているが、一心を修め慎み、清浄潔白を本来とするならば、茶道が治国平天下のたすけとなることを強調しました。
 しかし、なんといっても不昧について特筆すべきは、世に『雲州蔵帳』と呼ばれる茶器の蒐集でした。幕府や諸藩の財政が窮乏する中で、名物茶器が道具商を通じて手に入るようになると、茶の湯に執心していた不昧は、その機を逃しませんでした。不昧が、六十八歳で没するまでに茶道具の大コレクションができあがっていました。
 この点についておもしろいのは、このように数多くの名物茶器を蒐集したことについて、不昧が、「名物は天下古今の名物にして、一人一家一世のものにあらず」と述べていることです。わざわざ大義名分をたてて、道具集めをした不昧の人柄に強く惹かれるのは、私だけでしょうか。
 幕末になると、世上は風雲急を告げてきます。その時代に活躍した茶人といえば、大老井伊直弼こと井伊宗観がいます。この時代に日本人は再び西洋文化と対峙します。そして、産業革命と市民革命を経た西洋文化の圧倒的な力に驚愕するのです。圧倒的な力を持つ西洋文明に触れた茶人井伊宗観が何を感じたかは窺い知れませんが、来るべき新しい時代を予感していたのはまちがいないでしょう。独断で開国を決定したことは、その現れと見てよいでしょう。

大名物 大井戸茶碗 銘 細川井戸

 来るべき新しい時代への予感は、井伊宗観の茶道観にも現れているように思われます。井伊宗観が説いた、最も高次の精神的充足はたった一人の茶の湯の中にあるという「独座観念」の思想は、西洋哲学を思わせます。個人の価値を大切にする西洋的な価値観に近いものを感じさせます。新しい茶道観の出現と見ることができるように思われます。

 幕末と明治維新後の激動の時代をたくましく生きた茶人に玄々斎宗室がいます。玄々斎の時代になると千家の茶道は、公家、武士から町人に至るまであらゆる階層に及んでいました。玄々斎は、幕末期においても、利休二百五十年忌の法要と茶事を行うために裏千家の様相を一変させるような普請を行ったり、茶箱点前を考案するなど多くの功績を残していますが、やはり特筆すべきは明治維新後の活躍でしょう。

松唐草絵炭斗 玄々斉

 明治維新後の日本文化は、西洋文化の圧倒的な力の前に風前の灯火のようになってしまいます。あらゆる伝統文化は否定をされ、茶道家元も遊芸人扱いされそうになる始末です。その時に「茶道の源意」と呼ばれる意見書を提出して、茶道文化の本旨を明示し、日本の古典芸能、ひいては古き良き時代の文化への眼を開かせる警鐘を鳴らしたのが、玄々斎でした。明治維新直後に否定された日本文化の多くは、後に西洋人によって価値を見直されて復活するのですが、茶道は、玄々斎らの活躍によっていち早く復活するのです。茶道文化が日本文化の本質に通じるものを備えていたこと、またあらゆる階層に及んでいたことが大きく力を発揮したのでしょうが、玄々斎の見識の高さが当時の人々の心を動かしたことも見逃すことができないでしょう。
 明治維新を経て茶の湯は、近代茶道への道を歩み始めます。そして、茶道は、新しい時代の中でも確実に歩んでいきます。早くも明治五年には、玄々斎が京都博覧会において立礼式の席を設けて、新しい茶の湯への第一歩を示しています。
 もともと茶道は、西洋文化に対抗できる価値観をもって成立しました。西洋的な価値観に決して吸収されない日本独自の文化性を備えていました。そして、時代の経て茶道はさらに成熟していたのです。近代茶道は、その後大きく花開きます。 

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