〜中編〜 |
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千家の茶道の本系は、娘婿で養子の少庵から孫の宗旦へと受け継がれていきます。
利休には、独創性に富み、非常にすぐれた茶人であった道安という長男がいました。道安は、気性が激しく、温和な少庵とは対照的であったと言われています。生前の利休は、道安に強い期待を持っていたようです。秀吉に「わたしの倅道安であれば、大仏殿の中で点前をさせても、ひけを取らないと存じます」と道安の腕前を推薦したりしています。道安は、秀吉の茶頭となり、利休が切腹した後にもしばらくして赦免されると、ふたたび秀吉の茶頭になっています。茶道具にさまざまな作意をこらし、道安囲いという茶室も考案した道安でしたが、男子がなく養子もとらなかったので、秀吉は、少庵の息子の宗旦に千家を継がせようとしました。 利休の娘婿で養子の少庵も、すぐれた茶人でしたが、義兄道安の陰に隠れていることが多かったようです。 少庵の息子宗旦は、十一歳の頃から大徳寺の名僧、三玄院の春屋宗園のもとで喝食として修行を積んでいます。秀吉の命により還俗して千家を継承することになりますが、宗旦の活躍した時代は、関ケ原の戦いから豊臣家が崩壊し、徳川の世へと世の中が移り変わってゆく激動の時代でした。この時代、宗旦はわび茶道に徹し、乞食宗旦とまで呼ばれました。 宗旦の同時代の人々には、綺麗さびの小堀遠州、姫宗和と呼ばれた金森宗和、楽茶碗に独自の境地を開いた本阿弥光悦などがいます。まさに茶道第二期黄金時代といえるような状況でした。この頃になると、利休の茶道に強く縛られることも無く、それぞれが独自の茶道を追及するようになってきていたように思われます。その中にあって、あくまでも利休流茶道にこだわったのが、利休直系の宗旦でした。利休の二人の息子、道安と少庵から利休流茶道を学んだ宗旦は、利休の茶道のすべてを習得していたと言ってもよいように思われます。
茶道を継承するとは、先人の考えを理解し、それを自分のものにすることだといえるでしょう。先人にどこまで近づけるかが、究極の目的になります。それに対して、先人の考えを理解して、それを参考にして独自の境地を切り開く人もいます。しかし、この場合は、先人から学んだことには違いはありませんが、もはや継承とはいえないのではないでしょうか。継承することにこだわるのか、こだわらないのかは、それぞれ学ぶ人の考え方でしょうが、継承することにこだわる人がいてそれが続かなければ、流派は続いていきません。宗旦は、尊敬する偉大な祖父である利休に少しでも近づけるように、全身全霊打ち込んだに違いありません。それが、今日の千家茶道の礎となっていることはいうまでもないでしょう。 その宗旦の姿を見て、多くの人々が宗旦から茶道を学ぼうとしました。三人の子供は言うに及ばず、宗旦四天王をはじめ多くのすぐれた茶人を輩出しました。山田宗
宗旦に茶の湯を学んだ人物の中で特筆すべきは、本阿弥光悦でしょう。本阿弥光悦は、小堀遠州にも茶の湯を学んだと言われています。光悦は、楽茶碗に独自の境地を開きました。光悦の楽茶碗は、いずれも豊かな造形性がうかがわれ、自由な作意が大胆にして細やかな作調のうちによく生かされているといわれます。光悦の箆使いには、長次郎やのんこうにはみられない迫力が感じられます。宗旦の侘び茶を基礎としつつも、光悦は楽茶碗の中に自分なりの美意識を発揮したといえるでしょう。このように光悦が自由な作意を発揮することができたのは、徳川時代になると茶道は、信長や秀吉の時代に見られたように時の権力者と強く結びつくことがなくなり、光悦も家康から鷹ヶ峰の土地を拝領しますが、さほど権力者家康を意識せずに、作陶に没頭できたように思われます。
もっと自由な立場で作陶に専念できたのが、金森宗和と野々村仁清でした。金森宗和は、利休が切腹した後、道安をかくまった飛騨国高山城主金森可重の長男ですが、勘当され剃髪して宗和と号して、公家社会と深くかかわるようになります。公家好みの茶道を展開し『姫宗和』と呼ばれる華やかで上品な茶風で知られています。宗和は、大名の長男でしたから、幼少の頃より利休流、織部流茶道を学んでいました。それを基礎としながら、公家にも受け入れやすく工夫をしました。この金森宗和の指導を受けて作陶をしたのが、野々村仁清でした。
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