〜前編〜

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 茶道は、室町時代の東山文化の中心、将軍足利義政の茶道師範であった村田珠光にはじまるとされています。 

一重切花入
園城寺

 村田珠光は、形式的な書院飾りの法式に、仏道修行を取り入れ、茶の道を成立させました。さらに珠光は、茶道に侘びの感覚を取り入れました。珠光の名言に、「藁屋に名馬つなぎたるがよし」というのがありますが、当時の唐物中心のなかで、国焼のもつ素朴な美しさに注目しました。しかし、村田珠光の取り入れた侘びは、華やかさの対極として侘びでし た。まだ、侘び自体としての内実を備えたものではありませんでした。
 武野紹鴎は、侘び自体に向かい合おうとしました。紹鴎は、侘びの要点は、「正直につつしみ深くおごらぬ様」である、と述べています。また、侘びとは、不完全美だともいっています。もう、そこには、華やかな形式美に対する意識はさほど見られないように思われます。

黒茶碗
大黒

 そして、千利休によって茶道は、完成されるのです。では、千利休によって完成された 茶道とは一体何だったのでしょうか。茶道は、現代でも日本文化の象徴のように言われます。今日のように、グローバリゼーションが進む世界にあっても、茶道は、世界に通用する文化して世界から認められています。これは、茶道が、当時の国際都市堺ではぐくまれ、完成されたことと無縁ではないと考えられます。利休が完成した茶道とは、外国文化に触れた日本人が見つめた日本的なものの再発見ではなかったのでしょうか。長次郎に焼か せた今焼茶碗も、数々の竹の茶道具も、利休が見つけた日本の美であったのではないでしょうか。利休以降、四百年にもわたって茶の湯が日本人の心とらえて離さないのは、茶道が、日本文化の本質に触れる部分を持っているからではないでしょうか。
 千利休は、草庵茶道、すなわち侘び茶道の完成者とされています。目立たない調和のとれた美を、追求したといわれます。これこそが、日本文化を、欧米文化や中国文化と比べたときの際立った特色であるといえるのではないでしょうか。千利休は、茶道の完成者であると同時に、日本文化の再発見者であったと位置付けることができると思われます。
 このような特質を持つ利休流の茶道は、広く受け継がれていきます。まず、利休七哲といわれる武士階級へと受け継がれます。織田有楽、細川三斎は、忠実に利休茶道を継承しようとしました。町人の茶道を当時の武士達が受け容れたのは、単に太閤秀吉の権威に従おうとしたことだけではないように思われます。ことに織田有楽は、秀吉の権威に従おうという気持ちが、希薄であったように思われます。また、キリシタンであるガラシャを妻した細川三斎にとっては、茶道はなくてはならないものであったのではないでしょうか。もちろん、当時の人々も唐物や南蛮物を否定したわけではありませんが、和物に強いこだわりをもっていたように思われます。

黒織部
菖蒲格子文茶碗柾垣

 ところで、秀吉は、利休茶道の本質を理解していなかったように思われます。茶頭を選ぶ際の逸話は、秀吉が津田宗及と利休の違いを理解していなかったことを窺わせます。利休が晩年になってますます日本の美を追求する姿勢を強めるに従い、二人の価値観はどんどん離れていったように思われます。黄金の茶室に見られるように黄金文化を好んだ秀吉と竹の花入を愛した千利休とは結局相容れなかったのでしょう。
 利休流の茶道は、一人の鬼子を生み出します。古田織部です。利休の弟子の中で古田織部は、際立った特質を見せています。古田織部の茶道を、どのように捉えたらよいのでしょうか。古田織部は、動中に美を捉え、織部の茶道は、武人的な本質から生じたものだとされています。また、織部は、目につく美をあらゆる形において表現しようと努め、その好みは武家風の雄大な力強いものであったとされています。
 目立たない調和のとれた美を求めた利休の茶道とはあまりにも違う織部の茶道は、どのように利休の茶道につながるでしょうか。おそらく、日本の美を追及しようするという利休茶道の本質を、古田織部ほど感覚的に理解していた弟子は他にいなかったように思われます。利休のような繊細な感覚を持ち合わせていなかった織部は、自分流のやり方で日本の美を追求しようとしたのでしょう。今日でもなお、織部好みの茶道具がわれわれを日本人の心をとらえて離さないのは、それゆえではないでしょうか。「かぶく」美の表現だとされる織部茶碗は、利休が造らせた楽茶碗にも並ぶ純和風の美を備えているように思われてなりません。

中輿名物
瀬戸破風茶入 正木

 古田織部の茶道は、小堀遠州へと受け継がれていきます。小堀遠州の時代になると茶道は、公家文化をも取り入れていきます。遠州の茶道は、綺麗さびといわれ、王朝趣味的な美しさと気品の高さを持っていたといわれています。当時のあらゆる文化を取り込んでいくという茶道の許容力の大きさは、日本の美を再発見しようとする茶道の本質に由来するのでしょうが、それにしても遠州の綺麗さびは、利休の侘び茶道とはあまりにも違っているように思われます。この点を、どのように考えればよいのでしょうか。
 徳川時代に入って、日本社会は内向きになってきます。異文化を強く意識することが、少なくなっていくのです。小堀遠州にとっては、唐物も古瀬戸もさほど意識の上で大きな違いはないように思われます。利休や織部に見られたような和物に対するこだわりが見られないのです。中興名物の選定にはそれが如実にあられているように思われます。遠州の美は、他者を意識しない美、すなわち自己完結的な美であったように思われます。その意味で遠州の綺麗さびには、一定の限界があったように思われます。

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